いのりのこころ scene01:英語と天使と教会と

2008.06.30
 蒸し暑かったり、寒かったり、いわゆる梅雨の天気がぐずぐずと続いている。
 気づけばもう、七月だ。
 ぼくは、携帯の送信ボタンを親指で押した。撮ったばかりの、蒼い星のようなあじさいが、するっと画面から消えた。
 大地と写メができることに気づいてから、ぼくは、毎日、たくさんの写真を、携帯の向こうの大地へと送っている。
 散っていく花びら。美味しそうに光る若葉。いいにおいのする黄色のバラ。散歩中に出会った柴犬のジロー。ジローのくるりと巻いたしっぽ。
 中学入ってすぐの頃、身体検査の結果を送ったら、速攻で大地から電話がかかってきた。
「あれで、伸びたつもりなの?」
 くすっと笑う息づかいが聞こえる。くちびるの端をちょっとだけ持ち上げたあの顔で、笑っている。
「うるさいな、もうー」
「直樹はちっさいままでもいいと思うよ。顔、かわいいし」
「だから、うるさいって!」
 大地の笑い声が聞こえる。
 思い切りバカにされても、ぼくは携帯の通話を切ることができない。切ることが怖いのだ。
 もし、これが最後になってしまったら?
 もう二度と、かかってこなかったら?
 大地の笑い声や息づかいを、携帯の向こうに感じながら、ぼくはいつでもその時が来るのを恐れている。

 大地は、中学入学の一ヶ月前に、死んだ。交通事故だった。
 大地の携帯がぼくの手に届けられたその夜、鳴らないはずのその携帯が鳴った。
 大地からだった。
 理屈も理由も、いらなかった。大地が生きている。携帯の向こう側に大地がいる。話ができる。顔は見えなくても、ぼくにはそれだけでよかった。
 通話は大地からの一方通行だ。ぼくから電話をかけることはできない。
 けれど、ぼくからは、写メを送ることができる。ぼくの携帯から、もうとっくに契約の切れた大地のメールアドレスに送ると、なぜか届く。なぜ? そんなこと、考えない。
 これが、今のぼくたちの形だ。
 大地は今、白くてぼんやりとした、なにもない場所にいるらしい。そこからぼくの世界は見えない。
 だからぼくは写メを送る。
 中学への登下校中に見つけたきれいなもの、休日に出かけた先で出会ったおもしろいものを、ぼくは写メで大地に届ける。季節が変わっていく様子を、ぼくがいま何を見ているかを、隣で一緒に感じるはずだった大地へと、送り続ける。
 写真を受け取った大地が、どんなふうに感じているのか、ぼくにはわからない。
 見るはずだった景色、感じるはずだった温度。そんなものを送りつけられて、ほんとうは困っているかもしれない。もう、見たくもないかもしれない。でも訊けない。
 だからこれは、ぼくのわがままで、自己満足だ。
 ぼくが、大地と一緒にいたいから、大地と一緒に感じたいから、ぼくの見たものを大地にも見せる。大地がぼくのいる世界を忘れないでいてくれればいいと願い、送る。
 死んでしまった大地が、なぜ、携帯の向こうにいるのか。
 なんのために、ぼくと携帯で繋がっているのか。
 知ってしまえば、終わりが来る。
 そのときまで、大地をこの世界に、いや、ぼくにつなぎ止めておく、そのためにぼくにできる唯一の手段なのだ。

 期末試験を直前に控えて、その日ぼくは、プリントとにらめっこしながら、自宅への道を歩いていた。
「I、My、Me。You、Your、You・・・」
 まるで呪文だ。
 ぼくは魔女の呪文を唱えながら、どこか遠くで鐘の音をきいていた。
「They、あー、えっとー、えっとー」
 どうやらぼくは、英語が苦手だったらしい。
 中学に入って、初めて外国語というものにちゃんと触れたその瞬間、正直、めまいがした。初めての中間テストの結果をみて、さらに気が遠くなった。答案をみた父さんは、そっとため息をついた。母さんは、大笑いした。十五分くらい、ずっと笑っていた。それくらいひどかった。
 小学校から成績はいつも安定していた。こんなにひどい点数をとったのは、生まれて初めてだった。自分でもかなりショックを受けた。屈辱的だ。期末では取り返さなければならない。
「Thier、あれ? あれ?」
 カーン、カーン、カーン。
 鐘がうるさい。覚えた単語はどこかへいっちゃうじゃないか。
 カーン、カーン。
 まだ鳴るか!
 怒りを含んだ視線をあげる。
「あれ?」
 身体がぎくりと停止した。じめじめした空気がまとわりついていたはずなのに、背中をすっと冷たい風が撫でていった気がした。
 ぼくは、教会の前にいた。
 いつもは絶対にこの前を通らないはずなのに。いつのまに迷い込んでいたんだ?
 鐘が鳴る。
 あの日を呼び寄せる。
 白い花。むせかるような百合のにおい。ゆっくりと動く黒い服の集団。その手にも白い花。オルガン。歌声。嗚咽。キャンドル。ひそやかな声。鐘の音。そしてまた嗚咽。
 ぼくをぐるぐると取り囲む。白い花から一斉に花びらが風に飛ばされて、ぼくに向かってくる。花が散る。荒れ狂う雪のように、散り散りになる。その向こうに見えるのは、ボケた写真だ。写っているのは・・・。
 鐘が鳴る。
 ここはあの教会だ。大地のお葬式をやったあの教会だ。
 カーン、カーンと、命を刻むような重い音が響く。その波動を受けて、耳がキーンと鳴った。
 大地はどこ?
 ぼくは空を見上げて問う。
 大地はいない。もうこの世界にはいない。大地は死んだんだ。
 鐘が重々しく答える。
 そんなの、うそだ!
 ぼくは耳をふさいでその場にうずくまった。聞きたくない。そんな言葉は信じない。
「大地」
 息といっしょに、声が漏れる。
 ポケットの中の携帯は、沈黙したままなにも答えてくれない。
「大地・・・」
 くちびるを咬む。咬んで、堪える。
 大丈夫。大地は、携帯の向こうにいる。ちゃんとそこで生きてる。大丈夫、大丈夫。
「ーーー」
 なにか、聞こえた。
 腕に暖かいものが触れる。まぶたを押し開く。
 目の前に、天使がいた。
 天使って、ほんとに金髪で肌の色が白くって、かわいいんだ。
「Are you ok ?」
 天使がいった。
「え?」
 英語? もしかして英語? 天使じゃなくて、外国人? そりゃそうだ。いくら教会の前だからって、天使がこの世にいるわけない。よくみれば、金髪の蒼い目の小さな男の子が、目の前でぼくを見ていた。
「あ、あの、えーと」
 外国人だ。英語だ。どうしよう。なんていわれたか、わかんない。頭に血が上る。
「Are you ok ?」
 天使がゆっくりと繰り返す。
 あなたはオーケー?
 直訳する。ぼくの脳がその言葉を噛み砕き、意味を探す。
 あ!
 ぼくのこと、心配してくれてんのか。この天使は、道ばたに座り込んで、耳ふさいで、うんうん唸っていたぼくのことを、心配してくれてるんだ。
 大丈夫?
 ぼくの腕に触れている小さな手から、伝わってくる。とても優しくて、温かい。じわりと伝わってくる。
「ありがとう。大丈夫」
 笑ってみせた。しっかりと、日本語で答えてしまった。でも通じたみたいだ。天使がふわりと笑顔をみせた。
「Eric」
 天使が振り返る。教会の駐車場に、天使そっくりの金髪巻き毛な女の人がいた。お母さんだろう。天使を呼んでいる。
「See you」
 天使が手を振って、お母さんのところへ走っていく。ぼくも「またね」と日本語で答えた。
 天使とその母親を乗せた車が、駐車場から出て行く。
 鐘は、鳴り止んでいた。
 ぼくは、古びた石造りの教会を見上げた。
 あの夜のように、白い花も、キャンドルも、黒い服の集団も、嗚咽もない。ただ十字架が、雨でふやけそうなグレーの空へと、まっすぐにのびていた。
 左ポケットのふくらみを、制服のズボンの上からそっと押さえる。大地の携帯は、まだ沈黙している。でもきっと鳴る。必ず鳴る。
 ブルルル。
 携帯が震えた。
 ほらね。
 ぼくは息を吐き出した。左のポケットから大地の携帯を取り出す。応答ボタンを押す。
「直樹?」
 大地。
 ぎりぎりと力んでいた身体から力が抜ける。ついでに目頭の筋肉も緩んでしまったみたいで、じわりと熱いものが吹き出してくる。視界がどんどんにじんでいく。
「直樹? どうした?」
 大地のちょっと掠れた声がする。声変わりが始まったばかりの、あの頃のまま、変わらない声だ。
「大地」
「・・・泣いてんの? 直樹」
「バカ、なんでぼくが泣くんだよ」
 慌てて、ぼくはにじんだ涙を拭う。今だけ、大地からぼくが見えなくてよかったと思った。
「ま、いいけど」
 くすっと携帯の向こうの空気が揺れた。耳がくすぐったい。
「直樹、お願いがあるんだけど」
 大地がいった。また少しだけ、心臓が鼓動を早める。
 大丈夫、大丈夫と口の中で唱える。
「なに? まただれかに危険が迫ってんの?」
「違うよ。行ってきてほしいところがあるんだ」
「どこ?」
「教会。ぼくが日曜日に通ってたとこ」
 大地のお葬式をやったとこ。ぼくがいま立っている場所。目の前にある建物。
 これは偶然なのだろうか。偶然にしては嘘くさい。うん、偶然じゃないんだろう。ぼくは、大地に呼ばれて、ここにきたのだ。そんな気がした。
「いいよ。そこでなにすればいいの?」
 携帯を左肩に挟んで、落ちていたカバンを拾い上げる。右手の中では、英語のプリントがくしゃくしゃになっていた。
(つづく)