絶対値(続)

2010.03.29
主な登場人物:
  • 乙葉旭(おとはあさひ):代々妖怪退治屋をやっている家に生まれた中学一年生の男の子。このシリーズの主人公。
  • 焔(ほむら):旭が生まれる前から乙葉家に住みつく妖怪。原型は白い大きな狐だが、人型に変化することができる。
ご注意:
  • #003「絶対値」の続きです。
 春、深まる午後だった。
 開いた窓から運ばれた桜の花びらが、なんの違和感もなく学校の図書館という場所にいるあやかしを飾っていた。
 花を戴いたこの妖怪がこんなにも美しいのは、人間よりもずっとずっと自然に近い存在だからだろう。
 人は、いつだって美しいものを欲する。自分が美しくなれない代わりに、美しく輝く存在を自分だけのものにしようとする。そのどうしようもない所有欲にかられて、傷つけてしまうだろうことも鑑みず、ただ手を伸ばし、掴む。そして、手の中に閉じこめて、飽きるまで愛でるのだ。
 焔という名の、五百年生きた老人妖怪(見た目はまったく高校生だけれど)を、ぼくは、気に入っている。
 気に入っているという単語は、かなり控えめだ。
 ぼくが生まれてからずっとぼくのそばにあり続け、いまもこんなに近くにいてくれて、そしてこれからも、ぼくが死ぬまでおそらく絶対に離れることはないと、焔はぼくに誓った。そういう相手に対してさえぼくは、離れたくない、離したくないと思ってしまう。
 真の姿である白い狐であるときも、人型をとって茶髪の高校生のナリをしているときも、焔は美しい。
 美しく、そして強い。
 ただ弱く、下を向いているだけのぼくのあごを痛いくらい持ち上げ、太陽がそこにあると教えてくれる。風が気持ちいいと教えてくれる。歩けと、背中を叩いてくれる。
 中学に入って間もないぼくが、こんなことをいうのも変かもしれないけれど、彼は、かけがえのない存在なのだ。ただ一つ大切なものといってもいい。
 彼がいくらぼくのそばにいるからといってくれても、ぼくには足りない。
 ときどき無性に、そのたった一つを手のひらに閉じこめて、ぼくだけのものとしたくなるのだ。こんなふうに、焔が本来あるべき自然と仲良くしているときなんか、特に。
 焔はこんなぼくを知らない。
 できれば、知られたくはない。
 だからぼくは焔がいなくても一人で生きていける、そんな風に強がらなくてはならない。
 でも欲しいものは欲しい。
 ああ、もう・・・。
 ぼくを苛むひどく醜い所有欲に、どうにも身動きできなくなったころ、当のあやかしはゆっくりと目を覚ました。
「どうした? 旭」
 美しい紫の瞳が、ぼくを捕まえる。
「なんでもないよ」
 ぼくは笑って答える。心の中にある欲望を見透かされないように・・・。
「そうか」
「それよりなんの用? 授業中にあんなの寄越さないでよ」
「あれ、かわいいだろう」
 あれとは、焔が授業中にぼくのところへ寄越した式神だ。小さな水蛇の化身が、ぼくのノートからつるりと顔を出し、焔が待っていると告げた。
「かわいいとか、かわいくないとかの問題じゃないよ。こっちの都合も考えて欲しいんですけど。入学早々、先生に目をつけられたら困るの。目立ちたくないんだから」
「まーたおまえは!」
 焔の長い腕が伸びて、ぼくの頭をくしゃりと掴んだ。
「どうしてそうやって後ろ向きなんだよ。せっかく中学に入ったんだ。目立つ必要はねえけど、ふつーに友だちとか作って、もっと楽しめばいいじゃねえか」
 そのときのぼくの顔は、焔の紫の瞳にはどんな風に映っただろうか。
 ぼくの中に、怒りと、自己嫌悪と、諦めとが、一瞬のうちに生まれ、絡まり、走り抜けた。ぎゅっとくちびるを咬んで、吐き出したいいくつかの言葉を飲み込む。
「旭」
 焔はぼくに触れていた手をゆっくりと引いた。
 ぼくには他の人にはない力がある。
 あやかしをみたり、制御したりする力だ。
 この力のせいで、幼い頃、いくつかの間違いを犯し、友人を失った。
 こんな力があるぼくは普通じゃない。普通でなければ排除される。それがこの世界の理だ。傷ついた結果、学んだ教訓だ。だからぼくは目立ってはならない。学校という狭い社会を無事に泳ぎ切るために、耳を澄ませ、息を殺し、少しの変化も見逃さず、空気のように、水のように、周囲に溶け込み、本当のぼくを、この力を隠さなければならない。
 正しいかどうかを別にして、それが最良の方法だと、思っている。
 焔はそんなぼくを生まれたときからみてきた。小学校ではまともな友人などできなかったことも知っている。それでもことあるごとに友だちを作れという。
 一度、ぎゅっと咬んだくちびるを開く。
 友だちをつくっても、近くにいればきっと、ぼくが普通でないことを知られてしまう。ぼくの視線の先にあるものたちがみえない彼らは、なにもない場所に視線を向けるぼくを訝しむ。
「なにをみてるの」
 なにもないよ。
 そう答えられないぼくは、黙り込む。みえないものがみえるぼくをわかってもらうのは難しい。そしてそこにいる彼らを無視することもできない。
 だから、黙り込むしかない。
 そんなぼくをみる友人たちの目は、温度を失って冷たくなっていく。
 それが怖くて堪らない。ならば、
「新しい友だちなんて、いらない」
 焔の紫の瞳が、少し細められた。
「それは、悲しいことだ・・・っつっても、絶対に聞かないぞって顔してるよ、おまえ」
「ごめん、なさい」
「謝ることじゃない。おまえが決めることだ・・・でもおれはいつだって、おまえのそばにいるからな」
 一度、引かれた焔の手が、またぼくの頭へ伸びて、軽く叩いていった。
 胸の内側をきゅっと掴まれたように、むずがゆさが走る。
 無条件でぼくに伸ばされた手。たとえ世界中の人が敵になっても、この手だけは、ぼくを離さないと知っている。
 人間の手よりもずっと暖かくて優しい、あやかしの手だ。
 この手があるから、他の人とは違っても、ぼくは生きていける。
 焔さえいてくれればぼくは・・・
「で、だな、おまえを呼び出したわけだが」
 ぼくの深い欲望が、再び鎌首を持ち上げた始めたころ、焔は話を転じた。
「さっきな、ちょっと変な話、きいたんだ」
「変な話?」
「そう。授業で図書室に来たどっかのクラスの女子たちがな、旧校舎に出る獣の幽霊に襲われたって騒いでた」
「襲われた?」
 繰り返した言葉が、背中を冷たく流れる。思わず視線を巡らせた。窓から差し込む午後の陽光で暖かいはずなのに、ぼくの周りだけ闇が押し寄せたのかと思ったからだ。図書室は、あいかわらず午後のやわらかな時間に満ちている。
「旭、どうした?」
「ちょっとぶるっときただけ。この学校に人を襲うような妖怪がいるなんて、気がつかなかったから」
「おれもだ」
「それでなにがあったの」
「うん。いきなり足首を掴まれてな、転んだところへ大きな犬だかなにかが乗りかかって、大きな口を開けてそいつを喰おうをしたらしい。周りにも数人いて、それをみてた。全員が凍り付いたように動けなくなって、だれも助けることも、助けを呼ぶこともできなかった」
「その人は?」
「もうだめだと思った瞬間、チャイムが鳴ったんだそうだ」
「チャイム」
「部活が終わったあとの下校のチャイム。その音で化け物は逃げた。結果として、転んで少しすりむいたくらいで終わったけどな。すぐに先生を呼んだけど、もうそいつはいなかった。いくら犬じゃないっていっても信じて貰えなかった。結局、野良犬だったんだろうってことになったらしい。でもそこにいたやつらの話では、逃げるとき、そいつの身体は旧校舎の壁の中にふっと消えたそうだ。だから獣の幽霊って呼んでるってさ」
「獣の、幽霊? でも幽霊に人が襲えるわけがない。だって」
「そうだ、襲えるわけはない。なぜなら幽霊には実体がないから。おれたち妖怪と違って」
 焔の目がいっていた。
 だからおまえを呼んだんだ。
 言葉にされなくてもわかった。おまえの仕事だろう? 焔はそういっている。

 この世には、普通の人間にはみえない世界がある。
 妖怪たちの世界だ。
 彼らはお話の世界の住人ではない。多くの伝説や昔話は、うそではない。誇張されてはいるけれど、人間を化かしたり、襲ったり、食べたりする妖怪たちはいる。もちろん、野に暮らす小さな動物や昆虫のように、無害なものたちもたくさんいる。かれらは自然の一部で、ぼくたちにはない力をもっている。
 昔から、ときおり、彼らをみることのできる人間がいた。
 ある者は、妖怪の持つ特別な力を、私利私欲のために利用した。そういう輩の最後は、使役した妖怪に喰われるのが定めだ。またある者は、襲ってくるやつらを退治した。
 後者がぼくの家、乙葉家だ。
 乙葉の血を継ぐ者は、妖怪に拮抗する力を持っていた。古くから妖怪退治することで、人々を守り、自分たちの糧を得てきた。いまは、それは家業ではなく、一般には知られていない組織として行われているが、乙葉の者はだれもがその組織の一員となって、妖怪退治をしなければならない。
 その組織の名を、国家公安委員会第十一特別外局、通称「イレブン」という。
 妖怪たちはこの国に古くからある一つの種であり、どれだけ科学が進んでも、大半の人間はそれに気づかない。住む場所を追われ、人を襲うようになった動物たちと同じように、人間と妖怪の間に諍いは絶えない。昔よりもむしろ現代の方が、その衝突は激しいという。ぼくの両親をはじめとして、そういう血を持つ人々は、イレブンの局員として、日々、妖怪を相手に闘っている。目には見えなくても、妖怪に襲われれば、人はケガをするし、命だって奪われるのだ。
 でも、幽霊は違う。
 妖怪と幽霊は混同されるけれど、同じじゃない。
 焔にいわせると、妖怪は生きているという。元が石だろうが、屏風だろうが、動物だろうが、身体が透明でどこでもすり抜け可能だろうが、かれらは妖怪っていう生物なのだそうだ。幽霊は死んだ者の魂の表現方法であり、実体がない。だから恐怖という精神的なダメージを与えはしても、人を転ばせて押さえつけて食べる、というようなことはできない。
 これは、ぼくらイレブンの範疇だ。
「でもぼくはまだ、イレブンの局員じゃないよ」
「だからいいんだよ。あいつらは、いつだって消すことしか考えてねえ。人を襲う妖怪は、消す。おまえにはそこから入ってほしくない。ほんとにやばいと思ったら、ばあちゃんにいえばいい。でもよ、おまえにはおれがいる」
 ぼくは焔の言葉に頷いた。
 ぼくは、焔の身体に残るいくつもの傷を知っている。
 人を喰う妖怪は、無条件に攻撃される。人間にとっては、自分たちの仲間を守るための正義であり、妖怪の事情など関係ない。
 けれどぼくは違う。
『この傷は?』
『あー、これはな、いまから三百と二十年と十一ヶ月くらい前に、おれが二十一回目のドジを踏んだときのもんでな』
『かなり正確だね・・・』
 焔はおもしろおかしく過去を語ったけれど、そのときの焔には、傷つけられた身体の痛みが、そこから発熱するように生まれる人間への憎しみが、確かにあっただろう。黙って傷つけられる生き物はいないのだから。
 それでも笑う焔に問うた。
『どうして、笑っていられるの?』
『そんな過去のこと、もうどうだっていいんだ。おれはおまえに会えた。それに比べたら、そんなことはちっぽけで、取とるに足らない些細なことなんだよ』
 焔は、ぼくがそれまでみた中で、一番優しい顔で笑った。お父さんやお母さん、おばあちゃんと同じように、笑ったのだ。
 妖怪は生きている。
 どんな行動にも意味がある。本能だけで人を喰らうやつもいるだろう。けれどそれは、ライオンが狩りをするのと同じだ。彼らにとっての正義なのだ。
 ぼくは焔をとおして、ほんの少しだけ、彼らの世界に触れている。イレブンが教えてくれない向こう側の世界を、焔はみせてくれる。そして、ぼくにはまだまだ知らないことが、知らなければならないことがいっぱいある。
 ぼくは、人型をとった焔とともに、旧校舎の前に立った。

「こんな時間をね、逢魔が時っていうんだ」
 グラデーションのかかった空を見あげる。ピンクから紫へ。紫から紺へ。空は色を着替えていく。
 そこにある物を判別できるくらいには明るいけれど、どこかはっきりしない。一枚、薄いベールを被せたように、すべてのものの輪郭があやふやだ。闇と光が溶けあい、まるで初めてみる世界のように妖しい。
「逢魔。魔に逢うか。的を得てるな。おれたちは、夜の生き物だから」
 焔がペンキの剥げた旧校舎の壁に寄りかかる。木造の壁は、ききっと弱々しい鳴き声を上げる。壁も焔も、夕陽を受けて薄桃色に染まっている。焔の影が薄くなり、夕闇へと同化してゆく。光に、空気に、すっと溶け込んでしまう。自然に受け入れられた超自然の存在。魔と呼ぶに相応しい生き物。
 焔に相応しい刻だ。
 そう思った瞬間だった。
 周囲の空気に、湿り気を帯び流れが一筋、ふいに交じった。
「旭」
「うん」
 焔が校舎から離れ、ぼくの隣に立つ。
 妖気を放つものがそばにいると、独特の湿気が空気に交じる。いまそれは、細い糸となって、校舎から流れてくる。
「中にいるみたいだね」
「入ってみるか」
 ぼくは校舎を仰いだ。いまはもう使われていない二階建ての古い木造の校舎は、紫の闇に溶け込もうとしている。中央にある時計塔は、五時十五分を示している。この校舎は、時計塔だけが生きていて、暗くなると、橙のぼんやりとした灯りが灯るのだ。
 下校のチャイムまであと十分。今日は部活がない日のか、旧校舎の向こうに広がるグラウンドからはなんの音も響いてこない。誰もいないなら、ここでなにか起こっても、みられる心配はないだろう。
 ぼくは焔にむかって頷いた。そして思い出した。
「あ、入り口には鍵がかかってるはずだけど、どうやって入る?」
 焔はポケットにいれていた左手を出した。その指先に真鍮の鍵が一つ、ぶらさがっている。
「じゃーん」
「旧校舎の鍵。どうやってもってきたの? 教員室で管理されてるのに」
「ふふん」
「・・・つっこむのはよしとく」
「安心しろ。犯罪はしてないから」
「当たり前だよ、バカ」
「行くぞ」
「うん」
 正面入り口に立った。
 覗けば中がみえるような大きな鍵穴に、焔から受け取った真鍮の鍵を差し込む。力をいれて鍵を回すと、重そうな音が響いた。思わず辺りをうかがい、誰も来ないことを確かめる。
「大丈夫。だれも来ない」
 犬以上に耳のよい焔の言葉を信じ、冷たいドアノブを捻る。開いたドアから、妖怪が放つどくどくの湿り気を感じた。さっきよりも強い。やはりここに妖怪はいる。生徒を襲ったものかどうかはわからないが、でもここならいくらでも住み着いていそうな雰囲気だ。なぜいままで気がつかなかったのだろう。そっちの方が不思議だった。
 空気はひどくほこりっぽく、そして少しの流れもなく、重く澱んでいる。もう何ヶ月も風を通していないのだろう。灯りはどこにもなく、ゆがんだガラス窓から、空に残った夕焼けの残滓が薄く溶け込んでくるだけだ。一歩、踏み出すたびに、床から壁へ、壁から天井へと、木造の校舎が短い悲鳴をいくつもあげる。
 空気の動きのない校舎内では、あやかしのにおいがまるで細い糸のように、浮かび上がる。あやかしの気配は、嗅覚や触覚に近い感覚器官で感じることが多かったが、視覚的に視えるのは初めてだった。
「こんなにはっきり視えるのは初めてだよ。それは相手が強い妖気を放っているってことかな?」
 焔が薄闇の廊下の奥を見据える。
「それほど強くはない。たぶん、この場所が影響してるんだ」
「場所?」
「この旧校舎は、いまはもう誰も寄りつかない。でもなんで残っていると思う?」
「壊さない理由? 入学十日目のぼくにわかるわけないよ。でも普通は壊しちゃうよね。まだ壊れそうってわけじゃないけど、老朽化してくると危ないし。壊す費用もないくらい学校が貧乏とか?」
「壊せない理由があるんだ」
「壊せない理由って、もしかして、壊そうとすると工事の人が怪我するんで、呪われているとか」
「ははっ、違う違う」
「じゃあなに?」
「昔ここには、大きなお屋敷があった。明治の貴族の家だそうだ。それが戦争で、このあたり一帯は焼け野原になった。貴族制度なんてものはもうなくなっていたけど、財力はあったんだな。その一族は、焼け野原のこの場所に、子どもたちのために学校を建てた。これがこの旧校舎だ」
 焔が古い柱に手のひらをあてる。
「そのとき、もう二度と、ここが焼け野原にならないように、そんな未来が子どもたちに降りかからないようにって、この地を司る神さまに守ってくれるよう、一族は祈りを捧げた」
「神さま?」
「そう。そしてその神さまに、この校舎を捧げた。どうかここにお住まいになって、子どもたちを守ってくださいってね」
「じゃあ、ここは神さまの家でもあるわけ? だから壊せないの?」
「みてみろよ、旭」
 焔が天井に視線を向ける。
「ここが建てられたのは、昭和二十一年。いまから六十年以上前だ。日本が戦争を乗り越えてものすごいスピードで成長していた。子どもも増えて、この校舎だけでは手狭になって、いまの校舎が建てられた。ここが使われていたのは、二十年くらいだったそうだけど、それにしては老朽化してないだろ? 外は風雨や陽射しにさらされて、ペンキが剥げたりしてるけど、中はレトロな雰囲気はあるけど、おんぼろじゃない」
「うん。木は軋むけど、穴が開いてるわけでも、雨漏りしてるわけでもない。いつでも使えそう」
 天井を支える木は太く、いまだしっかりと組まれている。埃を被ってはいても、亀裂などどこにもない。まるで、最初に建てられたときから、時間が止まっているみたいだ。
 ああ、そうか。
 ここは神さまに守られてるんだ。
 だから壊れない。
 子どもたちを守るために、いまも神さまがここを守っている。
「ここは特別な場所なんだね」
 神さまが守る場所。
 そしてその神さまはたぶん・・・
「人間が神さまって呼んでいるものの正体は、おれと同じ世界の生き物だ」
「うん」
 心優しい妖怪が、長い間、ここを守ってきたのだ。
「もしかして、ここに校舎たてた一族って、ぼくの家みたいな人たちだったのかな」
「それは違うだろ。退治屋なら妖怪を神とは呼ばない。まして子どもを守るようお願いしたりもしない。ただ信心深い人たちだったんだろう。彼らには、この地に住むあやかしの姿が、土地神さまのようにみえたのかもな。よくあることだ。人を助け、守る妖怪だっているし、そういうやつらを人間なら神と呼んで縋る」
「でもなんで子どもを守るはずの神さまが生徒を襲うんだろうね、焔」
 焔がゆがんだガラス窓の向こうをみやる。夕暮れの名残はもうない。藍に満たされていく空に、一番星が強い光を放つ。
「それを調べるのがおまえの仕事だろ?」
 すぐにうんと返事ができなかったぼくは目の前の闇を見据えた。
 湿気を含む細い糸は、廊下の先へと進んでいる。その先になにがあるかは、まだわからない。
 怖くないわけはない。焔はどうかわらかないが、人間は闇の中では視界を奪われる。そのとき頼れるのは、この身体を流れる乙葉家の特殊な血の力だけだ。けれど、まだ未熟なぼくは、それすらも頼りにならない。使い方を習ったわけじゃないし、どうすれば使えるのかも本当のところわからない。そういうのはもう少ししたら、イレブンが教えてくれるのだ。
 でも、ぼくの中で、どうしようもなくざわざわと揺れるものがあった。なにかしなければならないと、ぼくを急き立ててくる。
『心に従えばいいだけだよ』
 ふいに父の言葉がぼくの耳の中で響いた。
 幼稚園のころ、お父さんに問うたことがあった。
『ようかいたいじって、どうやるの? ロボットにのるの? ビームとかでるの? それともおさむらいさんみたいにかたなとかつかうの?』
 思い返してみると、そんなことないだろと笑ってしまう問いだったけれど、お父さんは真剣な顔で答えてくれた。
『心に従えばいいだけだよ』
 まったくぜんぜんなんのことかわからなかったけれど、そのときのお父さんのまっすぐな目とこの言葉だけは覚えていた。
 ちなみに、その後、ぼくはお母さんにも同じことを聞いてみた。
『ロボットあるわよー、でっかいのよ、ビームも出るし、空も飛べるの。イレブンの秘密兵器よ。それから刀ってのもいいわよね。青とか金色の稲妻がばりばりっと刀を包んでね、それでばさっと妖怪を切るのよ。格好いいでしょー?』
 ぼくはこっちの答えに大喜びして「すごいなあ、おかあさん」を連発していた。今思えば、絶対にあり得ないだろうと恥ずかしくなる。でも幼稚園のぼくが欲していた答えはこれだった。
 もちろんお母さんは、この後、おばあちゃんに怒られていた。
 十年以上前のことなのに、それらすべての光景は、はっきりと覚えていた。
 ぼくは、溢れてくる思い出に、少し笑った。
「なんだよ、旭」
「ちょっと思い出し笑い」
「で、どうする?」
 人間に頼まれて、半世紀もこの校舎を守ってきた、その妖怪が人を襲うには、きっとなにか理由がある。
 おばあちゃんに連絡して、イレブンの人に来てもらって退治してもらうのは簡単だけど、でもそれじゃあだめだと、ぼくの心がいっている。
 ぼくは知りたい。
 そして、なにかできることがあればしたい。
 ぼくはぼくの心に従う。
 お父さんがいっていたように。
 ぼくが暗闇に向けて、一歩を踏み出したときだった。
 闇がぬらりと膨らんだ。
「旭!」
 闇が膨らんでくるのをこの目でみていながら、初めて目にするその異様さに、身体は恐怖に縛られ動かなかった。動けなかった。
 硬直したぼくの身体は、すごい勢いで突き飛ばされ、一瞬、目の前が真っ白になった。同時に、犬のような咆吼とダンっというすごい音がした。
「焔!」
 なにが起こったかを確かめるよりも先にその名を呼び、慌てて起きあがる。
 ぼくよりも数メートル背後に、焔が倒れていた。両手両足はだらりと弛緩し、伸びたまま動かない。焔の茶髪が傾けた顔を覆う。
 そして、焔の身体の向こうには、低く頭を垂れ攻撃態勢のままの、毛の長い犬がいた。身体は大きく、焔の原型くらいはある。その全身から、周囲のものを押さえつけるような重い力を感じた。
 長い毛の間から、犬の目が赤く光る。
 ぼくの身体の奥底が、まるで千度を超えるマグマを飲み込んだかのように、熱く熱くたぎった。
「っあああああー」
 ぼくは床を這いつくばるようにして、焔へと駆け寄った。全身から叫んでいた。ぼくの声なのに、だれか他の人が叫んでいるみたいに感じていた。
 焔の身体に指が届く。その服を掴み、縋るように焔にへばり付く。犬が唸る。低く喉を鳴らす。ぼくは焔の身体にしがみつく。犬の前足が床を引っ掻く音がした。顔は焔の身体に押しつけているのに、いまにも飛びかかろうとする犬が、はっきりと視えた。
「やめて!」
 ぼくの声と同時に、ぼくの身体が激しく熱を発した。身体の周りの空気がその熱で一瞬のうちに気化され、四方八方に飛び散る、そんな感じがした。
 それは、激しい所有欲の表れだったのか、それとも大切なものを守りたいという一心だったのか。自分の中にある想いが爆発したみたいだった。
 焔に被さったまま、動かなかった。
 けれど、衝撃は来なかった。
 張り詰めていた重い空気がなくなっている。
 ぼくは、そっと顔をあげた。
「え?」
 ぼくの目の前にいたのは、茶色く長い毛を持った、この街でもたまにみかけることのあるアイリッシュ・セッターだった。長く伸びすぎた茶色毛に覆われている。前足をきちんと揃え、お座りした状態で俯いている。
「ふつーの犬?」
 よくみれば、俯いたその細長い顔から、ぽたぽたと水滴が零れている。
「な、なんで? 泣いてるの? 涙ぼたぼた?!」
「・・・もうダメです」
 犬は、か細い声で短く、そして絶望に満ちた言葉を発した。元はアイリッシュ・セッターだった妖怪だろうか。
「なにがダメなの?」
 思わず声をかけてしまう。
「さっき、あなたから発せられた強い波動で、わたしの力が飛んでしまいました。あなたは何者ですか? それにそこにいるモノはヒトの形はしているけれどヒトではない」
 自分の中からなにかが飛び散る感じ、それは波動となって襲いかかろうとしていたこの妖怪の力を奪ったというのだろうか。
 自分にそんなことができるとは思ってもみなかった。
 それができるとすれば、ぼくにはやはりあの家の血が流れている。
「ぼくは、妖怪退治屋の家に生まれました。でも、あなたを消そうとかそういうつもりじゃなくて」
「ああ、そうでしたか」
 アイリッシュ・セッターは、なにかを諦めたように、小さい息を吐き出した。その拍子にまた涙がこぼれる。
 妖怪とはいえ、涙をぽろぽろ零す犬をみるのは初めてで、旭はまだ焔の身体にしがみついたままでいるしかできなかった。
「このあたりの退治屋といえば、乙葉ですか」
「知ってるんですか?」
「はい。わたしたちの間では有名ですから」
「ぼくは乙葉旭です。それからこれは、焔」
「古い妖怪ですね。このモノからは血のにおいがします」
「人喰い妖怪だったころもあったけど、いまはぼくの友人です」
「そうでしたか。そのモノの持つ禍々しい血のにおいで、つい気が立ってしまいました」
 静かに話す犬は、その犬種に恥じない気品を纏っている。さっきまでの重く暗い妖気がまるでうそのように、繊細な空気が漂う。
「あなたはこの校舎を守る神さまなんでしょう?」
「昔のことです。いまはもう、この家を守ることが精一杯なんです。その力ももうあまり残ってはいない。だから、もう助けられないのです」
 はらはらと涙が落ちる。
「なにを助けられないんですか?」
「この家に住まうものたちです。とても小さな、今にも消えそうな命です」

 アイリッシュ・セッターは、ぼくを伴い、校舎の一階奥にある管理人室のような場所に案内した。
 焔は、その妖怪アイリッシュ・セッターによれば、体当たりした拍子に頭をぶつけて脳しんとうを起こしているだろうから、動かさない方がいいといわれ、廊下においてきた。確かめると、ちゃんと息もしていたし、頭のてっぺんにたんこぶができている以外には、どこにもケガはなかった。
 アイリッシュ・セッターは、扉をすり抜けて中へと消えた。人間のぼくは通り抜けることはできないので、闇になれてきた目でドアノブを探し当て、ぎぎっと押し開ける。
 部屋は、通りの街灯からの光が入るのか、ほのかに明るかった。入り口から一段高いところが畳敷きになっていて、その部屋の隅にアイリッシュ・セッターは座っていた。そばに小さな段ボール箱がある。中をみつめる黒く優しい目から、また涙がこぼれている。
「もう鳴き声もしません」
 ぼくは靴を脱いで部屋に上がると、段ボール箱を覗き込んだ。
 白とか黒とか茶の毛の塊があった。
 その塊の一部から、小さなピンクの耳がいくつか飛び出している。
「子猫?」
「どこから入り込んだのか、この校舎の下で猫が子を産みました。一昨日のことです。でも母猫がすぐにいなくなってしまったのです。置き去りにされた子猫たちをここへ運びました。温めたりしたのですが、どんどん元気がなくなって。それでわたしの力を分けてやろうと思いました。でも、わたしにはもうそこまでの力はありませんでした。ですから」
「生徒を襲ったんですか? 人間から力をもらうために」
 ぼくはアイリッシュ・セッターの言葉の続きを繋いだ。
「ここの生徒たちは若く元気がある。その力を少しでも分けてもらいたくて。でも間違いでした。あなたがたが来てしまった。そしてわたしの力はもうほとんどありません。助けてやることはできませんでした」
「ちょっと待って。まだ間に合うかもしれない」
 ぼくは黒い上着を脱いで、畳に広げた。ひやりとした空気が、薄いシャツの内側へと染みてきたけれど、構わなかった。
 段ボールから小さな毛玉をそっと取り出して、上着の上に置く。触れると子猫たちはもぞもぞと動いた。それでももう鳴く力はないのか、ひゅーという乾いた息の音が吐き出されるばかりだ。
 四匹目を持ち上げた。
 その身体は他の三匹よりも冷たかった。まだお腹のあたりに少し体温が残っているけれど、小さなからだはぴくとも動かない。
 手のひらに収まってしまうほどの身体をそっと抱きしめる。
 まだ死んではだめだ。
 きみはまだなにもみていない。
 おひさまが温かいことも、緑の草のいいにおいも、月の夜のおだやかさも知らない。
 助けるためならば、なんでもする。悪魔に魂を売ってその力を借りてもいい。それくらい強い気持ちがわき出てきた。
 悪魔の力?
 そんなものは存在しないけれど、妖怪の力ならある。
「強い妖怪の力ならどうにかできるかな」
 思わず呟いていた。
「その子猫に生きたいという意志があればあるいは・・・」
 アイリッシュ・セッターが答える。
 ぼくは、三匹を上着でそっと包んで抱え、さらに冷たくなりかけている四匹目を抱いて、部屋を飛び出した。
「焔!」
 ぼくは走りながら叫んだ。
「焔」
 焔はさっきのままの状態で廊下にいた。
「焔、目を覚まして」
 その身体をゆるく揺さぶる。
「・・・っん」
 薄く開いた瞼から、紫の瞳が闇の中に光った。
「焔、お願いだ。この子を助けて」
 四匹目を焔の胸に押しつける。
「は? 旭、おまえ、大丈夫だったのか。あいつは?」
「それは大丈夫だから。なんとかして」
「なんだこれは」
「死にかけてる。でも焔ならなんとかできる。信じてる」
「おまえ、信じてるって。この猫、どっから」
 ぼくは、黒い制服を胸に抱き、廊下の闇に向かう。
「ぼくは獣医さんに行ってくるよ。きっと助けてくれるから、ここで焔と待ってて」
「はい、お願いします」
「あ、おまえは!」
 焔が闇から姿を現したアイリッシュ・セッターをみつける。
「行ってきます」
「あ、こら、待て、旭! あっててて」
「急に動いてはだめですよ」
「ってかなんなんだよ、この犬! それからこの猫! おれは犬も猫も大嫌いなんだよっ! 旭!」
 焔がぼくの名前を叫んだところで、ぼくは旧校舎から外に飛び出した。
 頭の中では、獣医さんまでの最短ルートを計算しつつ、校門へと走る。
「助けるから。絶対に助けるから。それまでがんばって」
 幾度もつぶやきながら、街を走った。
 胸に抱えた上着から、じんわりと温かい流れがシャツ越しに伝わってきた。

 手のひらにあるものの温もりがまだ十分に残っていることを確認しつつ、ぼくは旧校舎に滑り込んだ。
 旧校舎のてっぺんにある時計は、午後七時半を過ぎている。ぼくが子猫三匹を抱え、ここを飛び出してから、二時間が経った。
「焔?」
 灯りのない校舎はどこまでも闇に溶け込んでいて、床と壁のつなぎ目さえわからない。
 手探りで壁を探り当て、一歩一歩確かめるように奥へ進んでいると、小さな蒼い火がぽかりと現れた。
「焔の狐火だ」
 旭の視線の先でゆらりふらりと揺れながら、案内していく。
 狐火は、ドアノブの一つに留まった。子猫たちのいたあの部屋だろう。触れたドアノブは、ひどく冷たかった。焔の胸に押しつけて残してきた一匹の、冷たい毛の感触が蘇る。振り切るようにドアをあけた。
「遅いぞ、旭」
 窓のそばに焔が、まるで家の居間にいるときのように寝転んでいた。部屋のあちこちには、狐火がゆらゆらと飛び回り、蒼白い影をあちらこちらに作り出す。学校の見回り教員に窓から覗かれたらどうするつもりだろう。寛ぎすぎだ。
 アイリッシュ・セッターは、部屋の隅に蹲っていた。少しだけ首をあげて、ぼくをみる。
 土間に靴を脱ぎ、畳に上がり、アイリッシュ・セッターの前に静かに座った。
「預かった三匹は、大丈夫です」
 アイリッシュ・セッターが、安堵したように瞼を閉じた。
「あの、もう一匹は」
 茶色の好奇な犬は、目を伏せたまま、首を後ろに傾けた。
 心臓がぱくんと揺れる。焔をみた。
「間に合わなかった?」
「ある意味では」
 焔の視線がアイリッシュ・セッターへと流れる。ぼくの視線もその後を追う。
 アイリッシュ・セッターの寝そべったお腹のあたりで長い毛がもそもそを動いた。
 そこから白いものがぴょこんと覗く。
「あ」
 真っ黒い目をまんまるに開いた小さな猫が、アイリッシュ・セッターの長い毛に飛びかかる。
「助かったの?」
 焔を振り向く。
「いまも生きているって意味では助かった。でも、もうあの猫は猫じゃない」
 生まれて三日で、もう目が開いている。他の兄弟たちは、獣医さんのところで二十四時間看護の受けている。目も開かず、よちよち歩きもできない。温かい保育器の中で、柔らかいタオルに包まれて、眠っていた。
 冷たくなりかけた最後の猫は、もうぱっちり開いた目で、アイリッシュ・セッターの毛にじゃれついて元気に遊んでいる。
 この子は、もう普通の猫じゃない。自分の毛で遊ぶ子猫を慈愛に満ちた瞳で眺めているアイリッシュ・セッターと同じ世界の住人となった。
 他の兄弟たちが寿命を終えても、きっといつまでも子猫のままこの世界に留まるのだ。
 焔の力を、強い妖怪の力を借りる。
 それは、こういうことなのだ。
 ぼくは、手を伸ばして白い子猫に触れてみた。
 小さな手足が、ぼくの指に絡みついてきた。おもちゃと思っているのか、無邪気にじゃれついてくる。小さなピンク色の舌が、ぼくの指先をぺろりと舐めた。
 温かかった。
 柔らかくて、そして、病院にいる三匹と同じように、温かかった。
「わかってる。それでも、あのままなにも知らずに死んじゃうのは、ぼくが堪えられなかった。だから焔に頼んだ。この子が妖怪になるとわかっていて、ぼくは頼んだんだ」
 子猫はぼくの手を離れて、親猫と勘違いしているのか、再びアイリッシュ・セッターの毛に絡みつくように寄り添った。
「ぼくが自分のために勝手にしたことだから、いつか、この子に恨まれるかもしれない。なんで妖怪なんかにしたんだって、責められるかもしれない。そのとき、ぼくはちゃんと自分のした結果を受け止められるくらい、強くなっていたい。誓うよ」
「その覚悟、忘れんな」
 焔がいう。
 ぼくはしっかりと頷いた。
「大丈夫ですよ。この子が自身で望まない限り、いくらわたしたちの力を与えても、妖怪として生まれ変わることはできません。あなたはこの子に生きるチャンスを与えたのです。わたしはこの子の面倒をみます。他の子たちは」
「ぼくが里親を探します。命を預かって、大切にしてくれる人たちを」
「頼みます」
「ところで、旭。おまえ、いいにおいさせてどうしたよ」
「うわ、さすが動物。鼻が効くね」
「うるせーよ、早く出せ」
 胸に抱えていた紙袋を開く。ふわりと湯気が立ち上る。
「はい、肉まん。アイリッシュ・セッターさんもどうぞ」
「それは名前じゃないんですけどね」
 高貴な犬がふふっと笑う。
「なんて名前なんですか?」
「かつてはジェスロと呼ばれていました」
「ジェスロさん」
「はい」
「また遊びにきてもいいですか?」
「はい、いつでもどうぞ。ここはわたしの家ですから。でも学校の人間にはみつからないようにね。勝手に入り込んで、しかられている生徒をたまにみかけるんですよ」
「はい」
 優しい瞳のこの犬は、きっと、入ってくる生徒も、しかりにくる先生も、同じようにこの優しい瞳で見守ってきたのだろう。昔も、これからも。
 ぼくはそっと小さく息を吐き出した。そして自分の相棒へと向かう。
「焔、帰ろう」
「いま何時だ?」
「八時くらいじゃないかな」
「やべ、ばあちゃんに角が生える。帰るぞ、旭」
 自分だけ肉まんを食べ終えた焔が、さっさと部屋を出て行く。蒼い狐火が彼に続く。
「それじゃあまた」
「はい」
「みう」
 ジェスロさんのお腹のあたりで子猫が返事をした。
 ぼくらは笑いながら、旧校舎を後にした。

 家についたぼくらを待っていたのは、もちろん、鬼のような祖母だった。
(了)